(仮)
何度もこの夢を見ている。
小学校の運動会の騎馬戦。本番までに何度も何度も予行演習があった。
本番。スタートの合図が鳴る。
練習の時だったら、みんなすぐにスタートした。
ところが、誰もスタートしない。
どうしたのだ?緊張しているのか?様子を見ているのか?牽制しているのか?
その空気がとても嫌だと思った。
柄にもなく、前へ出た。
自分は前に出る性格では全くない。みんなもそれを知っている。
ただただ、雰囲気が嫌だったのだ。
どれか一騎が出れば、みんなも続くと思った。
前へ出て、ふらふらと進んだ。
誰も出ない。
みんなシーンとしている。
まさか、スタートの合図を聞き間違えたのだろうか?何かルールの変更があったのだろうか?どうして、私だけここにいるのだろう?
急に、恐ろしくなった。恥ずかしくなった。
人の視線の真ん中で、もうこれ以上前に進む大胆さはなく、かといって、元の位置に戻ることも恥ずかしくてできなかった。
やってしまった!
ああ!
その羞恥と恐怖の瞬間を、何度も何度も夢に見る。
しかし、実は、今となってはもうわからない、
あまりに何度も見たので、それが本当に起こったことだったのか、
それとも夢だけで起こったことだったのか、
わからなくなってしまったのだ。
それから、こういうこともよくあって、
強く強く夢見たことが、何年も経ってから、
それが夢見ただけだったのか、
それとも本当にあったのだったか、
見分けがつかなくなっている。
何年も経っていなくても、
例えば、このことをあの人に言わなくては、と気になって、
何度も何度も頭の中でシミュレーションしたこと、
数日後その人と会った時、あれ、もう伝えたのだったか、
まだ伝えていないのだったか、
わからなくなってしまう。
それで、思った。
今、ここで強く強く夢見ていること。
それと、今の私の現実。
夢見ているということは、現実と違うと認識しているということだ。
だけど、何年か後で、それは、夢見たことなのか、現実だったのか、
見分けがつかなくなってしまう。
だったら、強く願っている「ここにはない」ことも、「ここにある」現実も、
一見対極にあるように見えながら、
実は大して違いはないのではないだろうか。